人間関係も物もペットもいつかは失うと知れ:エピクテトス
どうも、温泉が近くにあるのに入りに行った事がない うねおです。
今日はこの本から。
- 作者:マッシモ ピリウーチ
- 発売日: 2019/04/15
- メディア: Kindle版
執着:失われるという事を忘れなきように
そのためにはどのような訓練をすればいいか。根本的で、もっとも重要で、いわば第一歩となるのは、何かに愛着を抱くとき、すなわち、決して奪われないものではなく、水差しやガラスのコップといったものに愛着を抱くときは、それがたとえ壊れても取り乱す必要はないと忘れないことである。人間に対しても同じだ。自分自身の子どもや兄弟や友人にキスをするときは……死すべき者を愛していること、愛しても自分自身のものではないことを失念してはならない。彼らへの愛は一時的に与えられただけであり、永遠に手に入れたわけでも、ずっと手元に置いておけるわけでもない。1年のうちの決まった時期だけに収穫できるイチジクやブドウを冬に求めるのが愚かなことであるように、自分に与えられていないときに息子や友人を慕うのは愚かなことであり、冬にイチジクを求めているのと同じだと知るべきだ。
これはエピクテトスの言葉。
エピクテトスってのは、ヘレニズム時代の哲学者でストア哲学の代表者の一人ですね。
ローマ五賢帝時代の最後を飾った、マルクス・アウレリウスが影響を受けたとされる人物です。
上の文章は、
何かしらに愛着を抱いた時、それが永遠に失われるものではないなどと誤認しないようにとの忠告ですな。
人生、生きていると、多くのものを手に入れます。
それは、「人との関係」であったり、「ずっと欲しかったもの」であったりするわけですが
これらを「手に入れたという状態」は永遠ではない事を忘れんじゃないわよ!というエピクテトス先生のお言葉ですわ。
人間「自分」以外は最後を伴にできるとは限らない
昨今孤独死やらの話題で、孤独死したくねーって話しを聞きますけど。
ボクは、人間、死ぬ時は一人。と割り切ってます。
むしろ静かに死にたいわけですが、それはおいておいて。
この多くのものや人間関係ってのは例えば
- 友達や配偶者、子供も、先に死ぬかも知れない
- 大切なものは壊れるかもしれない
- ペットも逃げちゃうかもしれないし
みたいな話し。
言われれば当たり前だけど、所有している時はそれを忘れてしまうのが人間。
結婚すれば孤独死しなくて済むかも! なんて誤認をしてしまうのもコレに寄る所でしょうなぁと。思うわけです。
「自分」とは 体のことじゃないよ
とはいえ、「自分」は最後の最後まで人生を伴にできる存在といっても
体の事じゃないですよね。体だって失う事はあるわけですから。
この自分ってのはデカルトの言う「我」の事だと思います。
認知的な意味での自分ですな。
自分がその時発揮できる、知覚の最大限が「自分」。
認知能力だって衰えるわけなので、最後の最後までどこまで自分を維持できるのかもわからないわけですし。
究極的にはそれも含めて、失う事が死なわけですから。
言う慣れば
このエピクテトスの助言は、「どんなものにも永遠なんて無いよ」って話しだとも言い換えられるのかなと思うわけです。
まとめ
何が言いたかったのかってーと。
- 人間関係も、物も、ペットも、地位も名誉も、自分自身でさえも、いつまで一緒にいられるかわからんよねー
みたいな話。
まぁ、こういうメンタリティはより、今の一瞬一瞬、目の前の事を大切に生きるためにも大事かなと思うわけです。
無理して、将来将来って生きるより、今大事にできるものをちゃんと大事にするやでー
いま食えるだけ食っとこうと食いすぎてしまうのは、別の話。