人生100年時代って言葉が嫌い。
鼻炎のうねおです。
なんか最近よく聞く「人生100年時代」って言葉。
受け付けないですわ。
人間死ぬ時が死ぬ時
当たり前だけど、人間、死ぬ時が死ぬ時なんですよ。
100年生きるかもーって思って生きてたら、もってる資産を先延ばしにするだけ。
これはお金の話だけではないです。
今の時間を、存在するかしないかわからない「100歳の時間」のための使う事になる。
これはとんでもない話だと思う。
ピダハン族
最近読んでる本に「ピダハン族」の話が書いてあった。
ピダハン族は、鬱やら不安症やらの精神疾患が見られないらしい。
調べていくと「今を見て生きているから」だそうな。
怪我を負ったも、ただ怪我を負ったとう事実だけを意識し、できる事をやるだけなんだとか。
これは、先進国の人とは違う。
怪我を負えば「なんでこんな目にあったんだ」と原因を探したり、「こんな怪我を背負ってしまってこの先どうするんだ」と将来を悲観したりする。
メンタルヘルスでも、哲学でもよく言われてる事だけど「今に意識を向ける」ってのは非常に重要。
この意識が文化的に備わっているのがピダハン族という事なんだろう。
100歳の自分のために生きる愚行
言わずもがな、メンタルヘルスは先進国の方が多いらしい。
文明発展して、虚構を肥大化させて勝手に苦しんでいるのが先進国の人間って事だろうと思う。
「人生100年時代」もそれを後押しているキャッチコピーだと思う。
他にも
- 君は何者にでもなれる!
- 人生を変えよう!
とかそういう自己啓発系もそうだし、
- 理想の未来を引き寄せよう
みたいなスピ系もそう。
存在しない未来のために今の「思考力」や「お金」や「時間」を犠牲にしている。
それで幸福に慣れるわけがないだろう。
ショーペンハウアー曰く「幸福を追うな」
幸福を追うという事は、その条件を定義することになる
- 結婚すれば
- お金があれば
- 良い地位、役職につければ
- あの車があれば…あのマンションに住めれば…
などなど。
その定義、条件を達成しない=幸福ではない という条件付を自分で課している事になる。
幸福を定義づける事は、「今それを持っていない自分=不幸」という滑稽な図式を作り上げてしまう。
幸福というのは精神的なものであって、モノや地位に左右されるわけではない。
ショーペンハウアー曰く「幸福を追うな」との事。
精神的安楽を説いた哲学や宗教は多い。
ストア派やエピクロス派、仏教もそう。老荘思想や菜根譚なんかの東洋思想でも説かれている。
幸福には条件もくそもない。
それを定義付けてしまうことは、5年後だろうが100年後だろうが、そのための幸福達成や心配事回避のために「今を使う」という事になってしまう。
人の欲には際限がない
欲の踏み車という言葉があるそうな。
人間は、欲望を達成しても次の欲望へと心が動くので永遠に満足しきれない状態が続く事を表現しているらしい。
幸福だけの話じゃない。
話を戻すが100年後のために…なんて言ってたら
「まだ足りない。まだ足りない」と100年後のために生きることになる。
「老後の安心」という欲に執着し続ける限り、不安と心配の人生を送る事になるのだろう。
おわり
とはいえ、100年後なんて知るか!といって傍若無人に振る舞えばその尻拭いをしなければいけないかもしれない。
仏教や菜根譚はこの辺丁寧というかバッファをもたせていて、程よい塩梅でいることを説いていたりする。
「中道」という言葉はまさにそれ。
心配しすぎても仕方ないし、今の欲のために行き過ぎてもどうしようもない。
「今できることをできる範囲で精一杯、程々にやる」
この姿勢があれば、心配無用。
100年後だろうが、5年後だろうが、現実的に今できる事を淡々とやってればいいって事やと、わしは思うやで
▼友人のちゃんねるです。見に行ってやってくだせ。