生きる苦痛と死の壁
好きな作家さんが引退したり、少年期に見てたイラストレーターさんが病気になったり、なんか落ち込むニュースを浴びてるうねおです。
生きることは苦痛である
「人生は苦痛である」
これは釈迦やショーペンハウアーらが説いている事。
昨今の科学でも、人間はネガティブによるのが普通だよねって事になってるそうで(よく知らんけど)、危機を回避して生きる動物として全うといえば全うな話ではある。
とはいえ、そういった危険が潜んでいない現代日本では、このネガティブに意識が向きそれ故に苦痛が増大するというメカニズムは本当にしんどい。
釈迦らが生きていた時代もそうだったんだろうか。
現代より、物理的にはもっと過酷であろう事は間違いないのだろうが、精神的にはどうだったのだろうか。
解脱のために瞑想や善行を行えと説いているし、物理的にも精神的にもやはり苦しかったのだろうか。
生きていれば、嫌なことを目にしたり、しんどい思いをしたりするのは当然で
それでも楽しい面もあるというが、根本的に苦痛の方が大きいように出来ている。
どんな快楽を得られるとしても、代償として「腕をちぎります」とか言われたら
勘弁してください。
となる。
そして何よりも、最大の壁は「死」だ。
死の壁
死ぬという事は、死そのものに対する恐怖は妄想でしかないが
死に至る過程というのは、壮絶だ。
メンタル的にも、体力的にも簡単な話ではない。
ソクラテスは「死そのものを誰もしらないのに、無用に怖がっているのはおかしな話だ。自分は無駄に怖がりもしないし、平気だとも思わない」的な事言ったとか。
死への恐怖は、死という事象に対する無知が故に起こるものだろうが、その無知は解消のしようがない。
死そのものは科学できない。
スピリチュアルを信じられればよかったのだろう。
宗教的な文化背景が強い国なら、「死ねば神様の元へ」と思って安らかにいけるかもしれない。
しかし、科学がそれを殺してしまった。
結果僕たちは無に帰るという言いしれぬ恐怖心だけを抱いて死にゆく事になる。
僕は梵我一如的な哲学や物理学的に考えた上での、全体的縁起性を持てればと思ってるが、それが科学的に事実だとしても人間単位でしか物事を見れない以上、なかなか難解だと思う。
カントは、「人は物自体には到達できない」と説いた。
これは人は人のフィルタを通してしか事象を理解できないという意味だろう。
超弦理論では、世界を構成している最小単位は「ひも」であるとしているが、その「ひも」を観測する術を僕ら人類は持っていない。
しかし、この観測が出来たとて、それを信じられるかという事とは話は別なのだろうけど。
結局僕らは僕らの尺度でしか物事を見れない。
それこそ、それを超自然的な、たとえば神様みたいなものに心を無条件に委ねるだけの信仰心でも持たない限り
ぼくらは自己の消滅に怯えてしまうのだろう。
解放されるまでの道のりは苦しい
死は解放だ。
生きるという事により発生する多くの苦痛から解放される。
しかし、それを得るための過程は険しい。
痛みや苦しみ、死への恐怖を乗り越えていかねばならない。
安易な事ではない。
僕は死そのものは怖くないが、死ぬという事実と向き合えるかどうかという事については、正直自信はない。
仏道修行はソリューションになるのだろうか
釈迦の哲学では、これらに対しては瞑想と善行によって対応するとされている。
死に限らずすべての問題これでいけるというかなり雑な哲学だが
アドラーは悩みのすべては人間関係と説いた。
釈迦はおそらく、すべての問題は自分の心が作り出している。と考えているのだろう。
釈迦の言葉を読んでいるとそう捉えられる部分が多い。
もちろんだからといって、物理的な問題を全面的に無視せよという事は発していない。
なので例外はあるだろうが、往々にして人間の問題は自分が作っているか、捉え方の問題だという事なのだろうと思う。
ここでいう善行も、哲学による善だろうから道徳的善悪というよりは、自分が良しとするかどうかという話だと思うのだけど、これは時代背景なども加味して、自分が受け入れやすい形に捉えるのが良いと思う。
瞑想もまた、瞑想そのものの手法にこだわったりするのではなく
現在は科学も発展して、認知行動療法など、メタ認知を鍛える手法は多岐に渡っている。
これらをうまくつかって「感情に飲まれないようにしていく」しかないのだろうと思う。
おわり
みたいな話でした。
生きてるってのはしんどいんだぞって知っておくだけでも、「なんでこんなにしんどいんだ」なんて思わなくていいから、逆説的に楽になるかもなーと思うたり
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