どうせ自殺するなら適当に生きる、とは言えど、それができたらそもそも自殺を考えない
どうせ自殺するなら、適当に好き放題生きてみようみたいな事を考えては
しかしそれができるならそもそも自殺を考えたりしないだろうという事に気づく。
人は、変われるかもしれないが、変われるというのは変わるべくして変われるのであって
つまるところ、変わることも含めて以前のままなのだと思う。
決定論的にすべてを必然であるというつもりはないけれど
僕ら人間は、他人の事はわかり得ない。
他人にクオリアがあるのかどうかを証明することができないという思考実験もある。
所詮、人は自分の価値観の中でしか生きられない。
生きたい人の論理は、死にたい人に影響を与えきれないのだろうし
その逆も然り。
死ぬ事以外なんでもないというポジティブな人もいれば
死ぬ事以外の救いはないと考えるペシミストもいるという事で
そのバランスが取れているから世界があるのであって
どちらが良し悪しという事ではないとも思う
みんながハッピーならばそれはそれでいいのだろうけど
誰かはババを引いているのが世の常というもので
ヨガの世界では「他人の不幸全部オレが受け止めてやるぜ!」みたいな思想を持つといいよーみたいな話もあるそうな
不幸である事を嘆くより、ネガティブな性質をこういうアドバンテージにして自分を強く保つのもありかもしれないとか思ったり
なんにせよ
そういう、自我意識によってもたらされるであろうポジティブ感情を維持するよりも
縁起性とか共同体感覚みたいなものに浸って生きる事くらいしか、ネガティブ人間が生きる意味を見出すという、答えらしい答えは見つからない。
本人が幸せになるみたいな思想は
持ってる側の論理なんだろう
自分のために、他者のために生きる
生きる理由がないならそのくらいがいい
保護猫でも飼えばいいさ。
すがるものがないと立てないのならすがればいい。
どうせ誰もがいつかは死ぬ。
立つのがいやならやめればいいけど、立っていたいと思うなら、すがるものでも見つけるしかないだろうし。
ほんと、よくよく思うが、人間ってのはよく平気で生きていられるよなと思う。
強さというか、盲目さというか。
つまり、猫飼いたいけど、マンションがペットNGという話。
あと、世話が大変そうだ。生き物は。