永遠回帰が人気な理由はこの世界が「ポジティブ教」だからだろう
ショーペンハウアーは死というものに対して
すべてを剥奪するもので、それを想像してしまう事によって、今以外の時間に心が囚われてしまう事に恐怖の大本がある(意訳)
といった事を説いている。
ニーチェは力強く中二心くすぐる言葉を使うため、人気な哲学者の一人だと思う。
などは哲学に興味がない人も割とどこかで聞いたことがあるものかもしれない。
永遠回帰
ショーペンハウアーとニーチェの死生観が違うのは、永遠回帰に表現されていると思う。
ショーペンハウアーの死生観は、割と現代科学的なというか無神論的な「無(何も無くなってしまって真っ暗)」というイメージが適しているといえる。
ショーペンハウアーは釈迦に影響を受けているらしいので、釈迦の「無記(形而上学的(スピっぽいやつ)な事は語らない」というところに、死はわからないというイメージをもって死を捉えてたのではないかと思う。
永遠回帰は少し違う。
正直これは釈迦の時代のインド思想とも似通っているため、釈迦自身は語らなかったとされているが、当時の常識的存在であった「輪廻」に対して、「あるかもね~」くらいには釈迦も捉えていたかも知れない。
永遠回帰はこの輪廻に近い。
輪廻はおおよそ、別のものになるという考え方で、「業」の概念とセットになっている。
輪廻は現在では誤解されていて「死んだら別のものに生まれ変われるんでしょ?人間に慣れたらうれぽよ~」みたいな感じに考えられているが
本来の輪廻は、「輪廻しないために、悪行を行わず、善行を行いましょう。修行をしてメタ認知ゴリゴリになって縁起性(根本に追っていたのは梵我一如)を理解しましょう」というのが本来の輪廻。
これはペシミズム的で、反出生主義的な思想が根底にあり
生における、苦楽は苦の方がでかい。というかそもそも一切が苦痛であるという考え方があるがゆえのものだとされている。
永遠回帰はもっとポジティブだ。
今のこの人生が、全く同じように繰り返す可能性も存在するため、もしそうだとしたら、今自分がやっている事を何度も繰り返す事になってもいいのかい?本当にそれでいいのかい?
みたいな思想。
つまるところ、今の人生を死んでやり直して別の人生を…みたいな誤った思想ではなく
どんな人生でも捉え方次第。今をどう捉えるかは自分次第。そしてそれを変える事ができるのも自分次第。だからやれる事やっちゃいなよ! みたいな話。
ポジティブ教の論理だなぁと思う。
正直な所。仮にそうであれば確かに恐ろしい。
無限ループは地獄だ。
解脱によって生まれ変わらないように修行をするという当時のインド思想の方がはるかに救いがある。
永遠回帰を良しとできないのは、僕がペシミストであるからだ。仏教やショーペンハウアーの方が合うのは当然だろう。
永遠回帰を良しとできるのは、いわばある程度今の人生が満足できていて、もっともっとと求める事ができる人だ。
本来の満足とはそういうものではないと仏教では説いているし、ストア派でも少欲知足の精神が大切とされていて、僕はそっちの満足を有したいと思っている。
が、現代はそうではない。
「もっともっと」だ。
永遠回帰はそのもっともっとを常にもっておこうという、ポジティブ教の信仰起爆剤となっているような気がする。
本来のニーチェはそういった思想ではないとは思うものの、やはりニーチェはポジティブだと僕は思う。
そのポジティブさは拡大解釈され、消費社会や資本主義の中で死を見つめようとしない都合の良い解釈に利用されているような気がしてしまうのだ。
どうせ死ぬなら楽しんだら良いじゃんみたいなの。まぁ理屈はわかるが、「得れば失うリスクを背負う」という事を忘れた理屈だよなぁと思うんだなぁ。おじさんは。