「生きているのは楽しいよね」というクソバカ思考について
生きているのは楽しいかもしれない。
しかし、それは今自分が健康で、苦痛を感じていないからにほかならない。
釈迦は生病老死は誰にでも訪れる苦であると説いている。
生まれ生きること
病になること
老いる事
死ぬこと。
あと4つあるがそれは置いておいて。
とにかく病と老いは辛い。
病は不条理に苦しいし、老いも健康や自由を奪っていく。
そして最後には死ぬ。
それをいつか迎えるという事とどう向き合っていくかが生きることであり、総じて生きる事は辛い。
そもそも生まれなければこんな事は考えなくてすむというのに。
その場その場のハッピーでは、「生きていてよかった」なんてくだらない戯言を一蹴してくれるほどの本当に苦しい状況に立たされた時、人は本当の意味で人生は苦しいものなのだと知る。
病も治れば「生きていてよかった」なんて思うかもしれない
しかし
治らなければ?
治ったとしても、その恐怖がいつかまた来るのではと怯えるのか?
お金があれば暴飲暴食し放題だぜみたいな阿呆な精神もまた
生活習慣病によって打ち砕かれる日が来るわけで
所詮は
人生なんてものは我慢なのだろうと思う。
我慢をどう行うかの違いでしかない。
釈迦をはじめ東洋西洋問わず僕の好きな哲学者達の答えは「目の前の事に集中して生きる」でしかない
根本的な解決にはならない。
というかそんな根本的な解決法は無いんだ。
死ぬしかない。それを解決と呼ぶには些か問題があるが
苦しみから逃れるには死ぬしかない。
どんな方法も一時しのぎにしかならない。
哲学やってメンタルをガチガチに鍛えて、それで死ぬ寸前までうまく苦しみを受け入れて生きられるなら正解なんだろうが並大抵の事ではないだろうと思うし。
生きているのは楽しいなんてのは苦しさを知らない人間の戯言でしかないのではないだろうか
シランケド。
根本的に僕のようなペシミズムな人間とは考え方が違うだけかもしれないけど
楽観的な人間だって、病に侵されても「生きててたのしー」って言いながら治療を受けたり嘔吐したりしてるわけではないだろうし
どんな人間もいつかはそうなる可能性を秘めていて
その時まで楽しいって、無理せず笑っていられる人間が多数派なのであれば
僕は少数派としてこの役に立たない思想を持ったまま死ぬ事になるが
おそらく
ただ見ないようにしているだけで
多くの場合
苦しみの中で悶え死に耐えるのが 人間という動物なのではないだろうかと思うのだけど。
どうなんだろう