生きるための最低限
生きるための最低限があればよしというけど
結局その最低限の基準も人それぞれ。
物理的な最低限を突き詰めれば、家すら不要だし。
「人それぞれ」という意味なら生まれた国が国なら服もいらないかも。
衣食住とかいうけど、日本にいると衣と住の最低限が新興国や未開の部族的な人たちより高くなる。
それは、日本国内でも少しずつ違ってくる。
自分の地域ではとか、生まれた家での教育、周りの人の価値観、色々あるけど
自分が最低限合わせなければいけない最低限の外部の価値観ために、自分の最低限が決まってくる。
最低限も人それぞれ。
仕方ない。
これを全部無視して生きられるほど、人間って強くもないし、それを強さというか弱さというか、それもまた難しい話だし。
結局は中道。
最低限ですら、ほどほどにバランスを取るしか無い。
ミニマリストだって家がある。
ホームレスの方が圧倒的に物を持ってない気楽な生活をしてる。
情報出してるミニマリストには承認があったりする
ホームレスは承認欲にも縛られないだろう
所詮考え方だ。
何も持たない暮らしとかいいながら、何かを持っていたがる人の方が多いミニマリズムは、
以前も書いたが情報商材化してて、思想が形骸化してるように思う。
「FIRE」とかと一緒だね。
重要なのはそこにハマる事じゃなくて、物やお金の煩わしさから解放される思想の部分で、ものがあろうがなかろうが、思想が形になれば、煩わしさなんて自然に抜けていくし自然にものも減るんじゃないかとか。しらんけど。
まぁそんな事はどうでもいいのだけど。
自分の思想ってのは自分で作るもので従うものではないと思う。
だから僕は仏教やストア哲学が好きなんだけど、仏教も日本では形骸化してるように見えるが、もとは自分で考える哲学で教祖を持ちましょうとか宗教にしましょうなんてやってなかったわけだ。
最低限もその一つて
「衣食住、病気の備えがあれば良し。」
これは吉田兼好だけど、衣も食も住も病気の備えも、個々人の最低限が違う。
だからあまり何もかも最低限だのとか持ちすぎだだのとか
細かい事を言うより
「だいたいこんなもんだ。」
くらいがちょうどいい。
「いい加減」ってのは本来すごくいい言葉なんだろうと思ったり。