十二国記 月の影影の海 (下巻) 読んだ
下巻読み終えましてん。
ネタバレあるかもよ
レビュー描く元気がないからほどほどに。
というか良かったセリフ一つで一本記事書けるし
それどころか、よかったセリフが結構あって、下巻はホント面白かった。
あらすじ
上巻で人に騙され、裏切られてきた陽子が、楽俊という半獣の青年に会い
少しずつ人の助けを受け入れられるようになって、自分を顧みていく話。
あらすじはもういいか。読めし。
人は愚かだ、苦しければ、なお、愚かになる
人は愚かだ、苦しければ、なお、愚かになる
欠乏を感じると、他のものまで欠乏が発生するトンネリングって心理現象があるらしいんですよ。
簡単な例だと「時間がない」
アレをやる時間がない⇛ 焦り ⇛これをやる時間もない ⇛ 頭の中がごちゃごちゃ ⇛ 上手くできない ⇛ 間に合わない ⇛ 焦る ⇛ 更に時間がない
みたいな。
「モテない」もわかる
昔ブラマヨの吉田氏がアメトークで行ってたモテるやつはシュートが決められてモテる理論。
イケメンでモテる⇛ シュートする時に「邪念がわかない」⇛シュートが決められる
ブサメン非モテ⇛ シュート決められたらモテるかもとか考える ⇛ 決められない
この理論も欠乏によって他のリソースが死ぬ事で他が上手く回らなくなる例かなと思ってまして。
苦しさが愚かな行いを生むというのは
昨今だと、やはり貧困層の犯罪問題であったり
孤独な人の犯罪や自殺についての問題とも繋がるかなと思うんですよね。
問題解決に至る前に、欠乏が問題を加速させてしまう。
まずは「無い」という事を俯瞰して、できる事に焦点を当てなければいけないのだけどそれができなくなる。
人間の心理ってのは厄介だなと。
トネガワだったか「一発逆転を狙うのは積み上げたものだけだ」みたいな事言うてたよなと。
でも窮するものほど一発逆転を狙いに、愚かな振る舞いをしてしまう。
FXとかギャンブルでありがちなやつでしょねぇ。負けてハイレバし始めるの。
これ小説レビューじゃなくね?
まぁいいか
人は自分のために生きている
人はだれもが自分のために生きている。慈善でさえ突き詰めれば自分のためでしかない。
これは陽子が荒んでるシーンなので後に続く文章は少し歪んでいる。
けど、まぁこれは真実かなと。
ダライ・ラマは「真のエゴイストは利他の実践をする」と説いてるらしい。
つまりは自分のために利他的になるって話だ。
所詮、偽善だろうと成された善は受けてにとっては善である事に違いはない。
それを理解した上で行えないなら、メサイアコンプレックス的かとも思うし。
感謝されて当然だと思ってしまうかもしれない。
所詮、どんな行動も自分の利益なんだ。
物理的なものや精神的なもの、あらゆるものを含めて、人間は利益が得られない行動はできないのかもしれない。
それを知る事は、結局善を成す人を育てる事にも繋がると思う。
綺麗事ではなく
利己的に利他の実践をする。
そういう事が社会を強くしていくのかもしれないとか思ったり思わなかったり。
清貧思考
陽子が王であると知ったあとに、「もっといい宿に泊まれば良い、王から金を取るやつなんていない」と楽俊に進められる。
楽俊も別に強欲主義ではないだろうけど、この世界の常識、それが身分にふさわしいという事だろうと思う。
それを陽子が拒否して、これで十分だというシーンがあった。
暴れん坊将軍見てても思ったけど、自分も慎ましく生きて、民に優しくできる為政者ってのは現代には多くないように思う。
杉並区長がそんな感じで話題になってたけど、さすがに詳しくないのでスルーするとして。
その話とともに、陽子が自分は王の器ではないという話をしている中で「自分自身の王」という話が出てくる。
自身を律する事ができないものに、国や民をよくすることはできないだろう。
この二つを考えるに、
清貧というのはそもそも他人に押し付けるようなものではなく、自分がどうかという話だし
自分が清貧であれば他人をいざという時助ける事ができるかもしれない。
上の欠乏の話と合わせれば、清貧でいれば生活に余裕ができる。
欠乏による寛容性の喪失を防ぐことができると僕は思う。
清貧というのは、国の経済的にマイナスであるという話は、あくまでも国視点。
個人は余裕を持つためにも他人の価値感に害されず、自分の精神的安楽を求める方が、内外ともによほど健康的なのではないか、とか思ったり。
おわり
今回はここまで。
面白い文章いっぱいあるんだけど、今日はもう疲れたので、ここまで。
そのうち小出しで描くかも。描かないかも。
小説は、メンタル保持にいいかもねーと最近思ってる。
浸ってられると余計な事考えなくて済むし、
それは逃げなのかもしれないけど、死ぬまで逃げて死ぬ時ちょっと後悔したり、無理に肯定して自己欺瞞に浸ってればすればちょうどいいかなと思う。
自分らしいというか。