宗教も哲学も、救ってはくれない。
宗教も哲学も救ってはくれない。
迷いや不安は、受け入れるしかなく
解消はされない。
レールは無い。
アルスラーン戦記に出てきた奴隷たちのように、
誰かが指示を出してくれて、生き方をすべてレールに乗せてもらえないと、生きられない人がいるのは確かなのだろうと思う。
だけど、それを与えてくれるのは宗教や哲学ではないのではないだろうか。
というか、そんな、「教えてくれるもの」は本当は存在しないのではないだろうか。
人は迷うし間違う生き物だ。
絶対的な指針なんてない。
時代が変われば考え方も変えていかねばならない。
ストアや原始仏教は外部の意見等を取り入れて変更していくことを是とされていたというけど
原理主義的な宗教にはソレすら存在しなかったりする。
哲学者にいたってはもう死んでいるから「●●がこう言っていた」というのは、あくまでも過去その段階でそうだったのであって、今それがハマるかは自分で考えなければいけない。
自分の状況とその哲学者の状況は違うのだ。
これはインフルエンサーもおなじだ。
金を持っている、名声を持っている立場の彼らの意見が、必ずしも万人に当てはまるわけがない。
自由の刑
サルトルは「人は自由の刑に処されている」と遺したが
本当にこれは刑だと言える代物だと思う。
誰も本当は、自分の人生にすら、責任を負いたくないが、追わなければならない。
レールを敷いてくれる人を求めている人達はその責任を追うそもそもの能力が無いのか、もしくは負うことが怖いのだろうと思う。
自分を大事にしたいから。
自己啓発や情報商材、高額な起業セミナーなんかにハマる心理と同じだ。
自分を大事にしたい、成功させてあげたいから。
生きたいという欲
釈迦やショーペンハウアーのようなペシミズム寄りの哲学者は「生きたいという欲を捨てろ」という話に到達している。
よりよく生きたいと思うから、答えを求めるのかもしれない。
ならば、これを捨ててしまえば
理想と現実のギャップに苦しむこともない。
唯一の、生きながらにして死ぬ術、だろうと思う。
ただしこれは容易なことではない。
僕は、釈迦がこれが出来ていた、ということすら疑っている。
僕は釈迦を神格化はしていない、所詮一人の世捨て人気取りインフルエンサーくらいにしか思っていない。
狂っているといえば狂っている、指針になるような、ならないような、そういう人たち。
だから彼らの哲学をすべて信じているわけではないが。
根本的な苦しみは、
「生きたいという欲」、「より良くありたいという欲」なんだろうと思う。
だけど、これは本当に、誰かがそのやり方を教えてくれるわけでもなんでもない。
ただ自分がそれを認めて、納得できる落とし所を見つけられるか、ということでしかない。
その欲をすべて棄てることなんて、ほぼほぼ不可能だろう。
捨てられれば大したものだろうけど、不可能だ。生きているんだから。
その上で。
その欲の落とし所を見つけるしかないんだ。
宗教や哲学を、誤った使い方をしてしまう前に
すべてに答えなど無いということを理解しておかなければならないと思う。
所詮は自分で見つけるしかないし、完全に欲を満たすことなんて出来ない。
「まぁこの程度あれば十分か」と、ほどほどに思い、慰め、自己欺瞞の中で緩やかに死んでいくことくらいしか、出来ないのだろう。