「誰からも気に入られる」という誰にも気に入られない生き方について
陽子は故国で人の顔色を窺って生きていた。 誰からも嫌われずに済むよう。 誰にも気に入られるよう。
人と対立する事が怖かった。叱られることが恐ろしかった。 いまから思えば何をそんなに怯えていたのだろうと、そう思う。
ひょっとしたら臆病だったのではなく、単に怠惰だったのかもしれない。 陽子にとっては、自分の意見を考えるより、他人の言うままになっている方が楽だった。
他と対立してまで何かを守るより、とりあえず周囲に合わせて波風を立てない方が楽だった。 他人の都合にうまく合わせて「いい子」を演じている方が、自己を探して他と鎬(しのぎ)を削りながら生きて行くよりも楽だったのだ。
誰も傷つけない笑い
「誰も傷つけない笑い」というクソワードが嫌いだった。
最近言われてるのか知らないけど、
そんなものは存在していないと思う。
表現している以上、傷つく人は傷つくのだから
従来の幸せプロパガンダ
旦那(嫁)と子ども二人でマイホーム。
こういった、従来の幸せプロパガンダは現在の統計上、怪しくなっているという事が上記の書籍に書いてあった。
言う慣れば、こういった「従来の幸せ像」ですら人を傷つけている。
うちの姉夫婦は子なしだが
Twitterに最近乱立している子育て漫画も、場合によっては「子どもが欲しかった人々」を傷つけている事がある。
子供目線なら、母親や父親が関わる作品は世の中に沢山あるが、親が居ない子どもも少なからず存在する。
上の作中の登場人物は養護施設で育っている。中村氏自身もそういった育ちらしい。
「親」というみんなが持っている愛情を与えてくれる存在をすべての人が持っているというのも幻想なんだという事を改めて思うわけで
そういった
「マジョリティ=みんな」という視野の狭いものの見方で良し悪しを論じるのがあまり好きではない。
僕が生きづらさを抱えていて、生に対するあらゆるもの、主に人間関係的なところの思考がマイノリティ側だという自覚があるからかもしれないけど
マジョリティの論理は理解が出来ない事もあるし、無駄に鋭利で突き刺ささって来ることがある。
孤独支援について
話が少し脱線するけど、生についてマイノリティ的な思考であるというのは
過去に友達を作る努力をしてこなかったのだから仕方ない。
コミュニティに属せば良い。
そもそも。
それが出来ないから孤独なのだという事を忘れているのではないかと思うようなほどの、至極全うだが何も射ていないこういった言説が
僕にとってただの鈍器でしかない事について、だ。
それを楽しいと思えないのだから、孤独である方を選び
しかし人間、そもそも孤独ではうまく機能しない構造であるから
僕は半分壊れかけているという事について、おそらく他の孤独や孤立で苦しんでいる人達も同じようなものなのだろうと思う。
僕はこわれてはいるが、苦しくはないのでまだマシなのかもしれないけど
このマジョリティ側の正論がただの暴力になっている事は
表現の善悪を決める時にも、その性質上、マイノリティを無視している事を忘れてはいけないと思う。
誰にでも気に入られるという誰にも気に入られない表現について
当たり障りの無い、表現とも言えるだろうけど
すべての人が良しするものなんて、そもそも存在しないし
仮にソレが存在するとしたら
それは何でも無いものでしかないだろうと思う。
クビになりかけながらも、なんとかマンガ業界にぶら下がっている身としては
この棘を表現する事の、難しさと
外では八方美人で居て、できる限り部屋にこもっていたい僕の弱さは
おそらく相関性があるのだろうと、思った。
関係ないが、「嫌われる勇気」とは良いタイトルをつけたもんだなと思う。
その勇気がないから、
生きることも、表現することも、いまいち下手くそなままなんだろうと、自省する。