不条理を嘆くから、生きづらいんだ。
自然とは常に 不条理なものだ。 ソレを嘆くのは人間だけだ。「続・夏目友人帳 7話」
コントロールできない事は放っておけ
人間には自分の力の及ぶ範囲というものがある。
その地位や権力を獲得することも、また生得的な気質と、受動意識仮説にもとづいて外部環境に対して反応のした結果なのだとしたら、それは運と同義であると僕は思う。
自分が今その権力を手にする事に興味がないのであれば
それはもう放っておくしかないのではないだろうか。
もしくは、その受け入れられない事実から抗える環境に移動するくらいしか出来ない。
自分次第でないものを軽く見よ
と説いている。
簡単な事ではないが、不条理な事は世の中に沢山ある。
嘆いていても仕方ない。
死もその一つだ。
無記
釈迦は形而上学的な事に関しては、語らなかったとされていて、それを無記というらしい。
ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」
カントの「物自体」
がいわゆる形而上学的な事ではないかと僕は思っているけど、僕はさほど哲学を真面目にやったわけではないので正しいかはわからない。
とはいえ、
形而上学を語る意味が無意味である事は、ヴィトゲンシュタインもカントも、釈迦も、ストア派の哲学者らもおそらく似た考え方を持っていたのではないかと思う。
ソクラテスは死刑の間近に逃げる道が用意されているにもかかわらず逃げなかったと記録されていて、死に対して
誰も死をよく知らないのに、すべて知っているかのように怖がっている。私は死を怖くないとも思わないが、過剰に恐れることもない。ーうろおぼえ
といった事を言ったんだとか。
形而上学的な事はわかり得ない。
天国や地獄という話は、本来の仏教には無い。
これは後の人間が付け加えたものだ。
実際、大乗仏教にも天国や地獄という概念が存在していないものも多いのだそう、僕は大乗仏教はよく知らない。
僕は少し苦手だが、浄土真宗では極楽浄土と言うらしいが、これはほぼ天国と同義だろう。これは後付解釈だ。
まぁ所詮、こんなのはエンタメのようなものだろうと思う。
わかり得ないのだから。
オカルト話としての死後の世界を語るのはエンタメ
語りえぬものは、エンタメとして面白い。その程度の付き合いがいいだろうと思う。
エウレカセブンのコーラリアンじゃないが、ユングの集合的無意識のようなものからの派生で人間の意識が存在しているんじゃないかみたいな話は
物書きとしても、面白いと思うし嫌いじゃない。
そういうエンタメとして語るのならいいけど、その程度にとどめておきたいと思う。
不条理に嘆く無意味さ
少し話がズレた。
形而上学については無論だけど、自分の力が及ばない事に関しても
ほぼ不条理であると言えるし
その不条理さを嘆く暇があれば、自分が影響を及ぼせる範囲で、変えるなり離れるなり、行動すればいいんだろうと思う。
簡単ではないけど。
妖魔の襲撃がひきもきらず故郷を思う暇もない夜は身体に辛く、少しでも余裕のある夜は心に辛かった。剣が光り始めても無視すればいいのだと分かってはいても、それをできる程心強くはなれない。「十二国記 月の影影の海(上)」
仏教や心理療法では反応しない練習として瞑想を行うのだろうが、スキルとして定着するまでには一定の時間が必要になる。
感情を無視し論理的に生きるというのは、簡単な事ではない。