幸福になるためにはどうすれば良いのか
幸福になるためにはどうすればよいのか
幸福になろうとしない
幸福になろうとしないことは大事。
幸福になろうとするという事は、つまりは今を「幸福ではない」としなければならない。
何かを追うという事は、今それを手に入れていないという事になるからだ。
幸福になるためには、まず幸福になろうとしないところから始めねばならないと思う
世の中の幸福法則を信じない
世の中の幸福法則は、他人が作った価値基準だ。
前時代的ではあるが、マイホーム、配偶者に一姫二太郎、マイカー一台に犬や猫もいる、みたいな家族像は広告塔でしかない。
こういったものはごく普通でもなんでもなく一定の恵まれている層のモデルケース、または、ローン組まされまくってる借金家庭か何かのどちらかだろう。
他人の作った幸福の定義ってのは
それを作った人たちが都合よく他人を操るために作ったものに過ぎず、たとえその幸福像と自分の状況が一致しているとしたとしても、個人の幸福とは無関係だ。
心の弱さに漬け込まれ安くなる
また、こういった他人が作った幸福像は高く設定されているため
心身を疲弊させる。
あらゆる統計データもそうだが、「自分は幸福ではないのだ」と思わせられるきっかけになる。
統計には外れ値が存在するように、蓋然性があるというだけであって必然性があるわけではない。
詐欺にひっかかりやすい人は、多くの場合心が弱っている。
世間の幸福像が高く設定されているのは、消費者の心を弱らせるためのなのかもしれない。
そうすれば、ものが売れる。
依存はストレスと関係があるらしいしね。そういう事だろうと思う。
不幸でもいいと思う
結局は、ぼちぼち程度の不幸ならまぁいいかと思えるかどうかが肝なんだろうと思う。
僕はよく吉田兼好の「衣食住と病気の備えがあれば良し」という言葉を指針にしている。
吉田兼好は
衣食住と病の時の備えを得られていないものを貧困、それを得ているものを金持ち、それ以上を望む事は奢りである。
と徒然草に残している。
清貧思考の話をすると、すぐにマクロ経済学とごっちゃにするマンがやってきて経済のためにならないとか言い始めるが、マクロとミクロは物理学ですら繋がりがうまくいっていないで
集団の経済と個人経済もそうなのだろうと思う。不思議だけど世の中は割りと同じような構造でできていると思う。
個人は個人、ミクロはミクロ、集団は集団で考えなければならないのだと思う。
まぁそれはおいておいて。
つまりは、個人レベルでの幸福は、日本国民なら大方手に入れられている。
病気の備えに格差はあれど、国民健康保険と高額療養費制度があるので、日本国民はこれを用意する必要がない。
つまりは。衣食住が整っていれば、それで問題がない。
十分幸福であると言う条件を満たしている。
あまり不幸ではなければそれでよい。とさほど幸福でなくてもそれでよいと、そう言える事こそ、幸福だと思う。
- 幸福は追うな
- 他人の幸福像に惑わされるな
- 不幸である事を許容できた時こそ、本当に幸福になれる
そんな事を思った。