人に嫌われてるなら、しぶとく生きてやろう、なんて考え方。
P21-22
「…悟った」この世界に陽子の味方はいないのだということ。行く場所も、帰る場所も無いのだということ。自分がいかに独りかということ。
それでも生き延びなければならない。味方も、生きる場所もない命だからこそ、心底惜しい。この世界のすべてが陽子の死を願うなら、生き延びてみせる。もといた世界のすべてが陽子の帰還を望まないなら、帰ってみせる。
こち亀で
なにか悩むとすぐ生きるべきか死ぬべきか、だからな!
眼の前がすぐ真っ暗になり二者択一だ!
悩んだら まず 生きるモードに切り替えてからスタートだ! それからどう生きるかを探せば良い
ってのがあったっていうか、これはネットでアホほど出回ってる。
それともう一個。
花魁Vtuberが生きる事が先にあり、理由があるから生きるのではないという話をしてる。
これは少し前に僕がサルトルを引用して書いた考え方に似ている。
実存は本質に先立つ。
存在していることが先にあるのであって、存在する理由は後なんだ。
しかし
生きるという事は大変だ。
だから何かしらの縋るものが必要であったりするわけだけど
釈迦はそれを是としていない。
縋るものが壊れてしまう事も前提の上で捨てねば、すがっていたものが壊れれば自分の存在意義も揺らぐからだ。
執着すればするほど、他人や外的なものに自分の存在を委ねる事になる。
しかし
これも考え方次第なのだと、十二国記の上の文章から学べる。
壊れたなら探せば良いと生きるのも一興だろうし。
失ったら失ったことを糧に生きる事だってできる。
生きる事が先にあるのだから。当然といえば当然だけど。
これは
僕のような精神虚弱な人間には思いつかないし、実践するのも難しい。
それでも、覚えておきたいと思った。