HSP商法に辟易している。
HSPなんて精神病は無い。
気質というが、定量的に測定できる分析方法があるのだろうか。
診断方法はありますというけど、それは医学的にエビデンスがあるのだろうか。
たしかに。人それぞれ気質はあるだろう。
しかし、それを治すとか、受け入れるとか
なんか言ってることは結局HSPという皮をかぶっただけで
今までのメントレと同じでは?って。
要は「HSP」ってかぶせる事で、もう一回繰り返してるだけなんだよ。
ほんま、ショーペンハウアーの「古典を読め」の言葉は何度でも気づきを与えてくれる
新しくしたところで、やること同じなんだよ。
「繊細さん」とかまたその上に新しいワードかぶってたりするし。
- 哲学や思想を勉強して
- 認知行動療法やれ。
もうこれしかねぇぞ。
立ち向かってもいつかは終わる。
逃げ回っててもいつかは終わる。
それが人生。
どうしたいかも、どう生きるかも人それぞれ。
ただ僕が言えるのは
無学や無知、無智で、食い物にされるのは自己責任だ。
他人を食い物にするやつにも辟易するが、自分の身は自分で守れるようになる方がコスパが良い。
他人が何をするかは自分のコントロール外の話だからね。
承認欲求ではなく他者貢献意識を持つ
嫌われる勇気のアドラー心理学では承認欲求のヤバさを説いている。
雑に概要をまとめるならアドラー心理学では
- 承認欲求や競争などの他者との比較優位性を求めるのをやめる
- 自分のコントロール外のものとそうでないものを見極める
- 他人や所属グループに貢献することで自己の存在価値を築く
みたいな感じの解決策が提示されている。
承認欲求を捨てる方法
ぶっちゃけこれがくっそ難しいと思う。
嫌われる勇気を読んでも変わらなかったよって人は多いと思う原因は
- 欲をコントロールすることは不可能だから
だ。
心理療法や仏教の勉強をしていると 欲を押さえつけても無駄ってキーワードはわんさかと出てくる。
対策のポイントとなるのは
- 認知の歪みを修正する事
- 受容
- 客観性(メタ認知)
この3つだと思っている。
この3つはそれぞれ独立しているわけではなく、例えば認知の歪みに気づきやすくなれば、受容性や客観性は強化されるし、客観性が強化されれば、認知の歪みに気づきやすくなる。
それぞれ関連しあっているように思う。
故にそれぞれのメンタルトレーニングもどれか一つを鍛えるというより、すべてに関係しているので一個ずつ取り組めば確実によくなると思う。
認知の歪みを修正する事
1つめは認知(行動)療法の実践で解決していくのが良いと思う。これができるだけでも承認欲求は消えるかもしれない。
もちろん「修正する」といっても、今が間違っているわけではない。
良いとか悪いとか、そういったものは主観的なものであって、個人個人で良し悪しが異なる。
このバランスは自分で取らなければいけない。
釈迦も「中道」を説いている通り、戒律というものを設けてはいたが、自分で考える事の重要性を重視していたのではないかと思う。
マザーテレサやガンジーのように生きる事も良しかもしれないけど、現代人らしくできる範囲で生きながら楽な道を模索することが一番大事。
受容と客観性
これもまた難しい概念だけど。
- 客観性とは文字通り客観的に思考を捉える力、思考に気づく力
- 受容とは、感情をそのままにできる力
みたいな感じ。
これらも主に、認知行動療法の流れで達成できる。
有名な手法の一つはマインドフルネスだろうけど、マインドフルネスは正直簡単ではない。
思考を止める練習から、観察する練習に至るまでコツを掴むのに時間がかかる。
書き出すタイプの(最近はアプリもあるので)認知行動療法のテクニックと向き合いながら、時間を見つけて5分10分から始めると良いと思う。
そして「受容の精神を学ぶ事」も大事。
下に上げる書籍はちょっと仏教語がすごくて慣れない人には慣れないと思うので、まぁぴったりくる本を見つける事が大事だと思うけど。
- 人の欲には際限がないため、何かを得ても次の欲を求めるだけで、一生幸福にはなれない。手放す事でしか人は満たされない
という理屈が理解できていれば、あらゆる情報の中にその片鱗を見つける事ができると思う。
ジャンプ作品みたいに、ハラタツやつ出てきたからボコー!みたいなのには無いけどね。獲得型の達成型のフィクションにはこの哲学は無い。だから作品を糧にしようとした時、どこかで「僕らは主人公ではない」という自己無能感に襲われる。
受容については、ACTなどのテクニックが使えると思う。
もちろん認知行動療法をベースにしている心理療法なので、認知行動療法をしっかりやってればそのうち身につくだろうけど。
なんにしても哲学が無いと自我の肥大化が発生しかねないため、学んでおいた方が吉。
おわり
今回は承認欲求の話だけだけど。
2つめはニーバーの祈りやストア派の根本思想と通じる。できることと出来ない事をしっかり分けようねという話。日本のアドラーでは(課題の分離)と言われているやつ。
3つめはは縁起の話。 釈迦の悟りは「縁起」と言われている。これはアドラーの共同体感覚をもっと物質レベルまで深めたものだが、言ってる事というかやれることはほぼ同じ。
所詮人は、何かとの関係性の中でしか生きられず、その関係性に対してどうアプローチするかが肝になる。
承認欲求を捨てるというのは、そういう事だ。
自分自分の人間はうまく回らないのは当然だ。
他者存在も存在してこそ自分があるのだから。
ということで。
- アドラー読んで、「承認欲求から開放されよう」とか言うけど、この本テクニックなんも載って無いし、感情や思考を変えるのは生半可な事ではないんやでー
- って事でおじさんが対策を多少提示するからやってみてやで
という話。
自己啓発本は所詮自己啓発本。 エッセンスを抜き出しても、その対策を提示してくれないどころか儒教に支配された国では「よしこれを使って人より抜きん出よう」といううんこ思考におぼれて逆に苦しくなる始末。
ショーペンハウアーが古典を読めと言った理由が本当によくわかってきた。
古い思想や哲学にはベースがある。
本当に変わりたいなら避けて通れない。と思うのでした。
社会には暗いものが沢山あることを、自覚していなかった。
今まで見えてなかったもの
先日「なにもかも憂鬱な夜に」を読んでから、何かと
自分が見ていた世界の範囲というものがすごく狭いものだったのではないかと感じる事があった。
世界には以外と暴力や虐待があったり、世間のレールを踏み外していたり
なんか、こう
なんと言えば良いのかわからないけど
僕が普段見ていた「ちゃんとしてる人たち」という所とは、全く違う所にいる人が沢山いて
ニコ生なんかはその例としてすごくいいなと感じた。
正直、この動画なんてまだ良い方。
よくわからない世界がすごくたくさんあって
僕はそういうものを今までしっかり見てこなかったというか
パーソナライズされた情報の中に埋もれていることで、安地を維持できていたんだと思う
「何もかも憂鬱な夜に」を読んで、その安地というものが揺らぐ経験がして
不思議と、外の世界に振れるきっかけのようなものを得てしまった。
スピリチュアルの世界に「引き寄せの法則」ってのがあって、アレは科学では否定されてるし、俗っぽい「お金を大切にするとお金が~」みたいなのはよくわからないけど
何か、ちょっとしたきっかけが、今までなかった繋がりを作ってしまうってのはあるんじゃないかと思う。
僕にとってはこの書籍が、その自分の安地の外の何かを見つけてしまうきっかけになった。
どこか。犯罪なんてものは自分とは無縁の世界にあるように思っていたけど、それは割とどこにでもあるものだと思うようになったし。
一歩踏み外せば、自分もそこに入ってしまうのだと気付かされてしまった。
実際に見たもの
こう抽象的な事を描いてても仕方ないから、ちょっと見て衝撃だったものを並べると
- 毒親に捨てられ叔父叔母に裸の写真を取られ売られたり、その後入った施設で暴行を受けた女性の話
- ブサイク顔に生まれて、兄貴はヤクザで暴行を受けていたり、いじめで何度も転向していたり
- 女性生主のところにリア凸してくる、中年おじさんのなんとも言えない一線を越えてしまった感とか
みたいな
何か、今まで見てこなかった「その変のホラーとか作られたフィクションの中の恐怖とか、そういったものを圧倒的に凌駕する世界の怖さ」みたいなものを
見てしまった。
関係ないのにメンタルがやられてきた。
僕は今、仕事をやめようとしている。
僕は今、仕事をやめようとしている。
FPも勉強したので、お金があるわけじゃないが、大失敗しないように対策もとってきた
だから、野垂れ死ぬ事はない。
でも、
何か彼らと近いものというか
普通ではない事において、その共通性のようなものを自分の中にも感じてしまう
仕事をやめた後、何かやりたい事があるわけではない
漫画以外か、また漫画かそれはわからないけど、何かを作ろうとは思っている。けど
気持ちの矛先がまだある事だけが救いになってるのかもしれない。
この駄文ブログもそうだけど。吐き出す所と吐き出すための情報という材料が無くなった時
何か壊れてしまってバランスを失いかねないようなそんな気がしてしまう。
これは本当の恐怖だ。
自分が自分であると言えるのは、自分がその存在をコントロール出来ていると感じるからであって
もし、それを失ったら、それがどんなきっかけで起きるかはわからないけど、それを失ったらと思うと
本当に恐怖だ。
正直、これは、死ぬことよりはるかに恐ろしいと思う。
暗いことで人に迷惑をかけるの、やめようと思ったんだよ:中村文則
重厚で陰鬱な作風とは対照的に、本人は明朗な性格である。交流のあるお笑い芸人・作家の又吉直樹がそのギャップについて尋ねてみたところ、「暗いことで人に迷惑をかけるの、やめようと思ったんだよ」と答えたという。ー中村文則 - Wikipedia
先日、中村文則さんの作品を読んだので
又吉さんが、Youtubeでこの話してた気がする。
今回気になったのは、「人」ってのが何を指すのかって事。
創作を通して「暗い」を誰かに渡す事は「良し」なのならば
読者はここで言う「人」の対象ではない(もちろん読者が人ではないという意味ではない)。
直接的な対人関係における人間がここで言う「人」なんだろうと思う。
よって、僕がこのブログで鬱屈とした思考を発信をする事においては、この中村さんの主張における「人に迷惑をかける」に該当しないと考えようと思う。
その代わりに、僕を知る人に僕の発する言葉で、不安や心配といった感情を抱かせてしまう事は終わりにしたいと思う。
それは僕自身望んでいる事ではないし
所詮、外れ値である事を自覚しているため
外れ値は外れ値なりに、正規分布の中に溶け込むように、なんとかごまかして生きていけというのが世の常なのだから
最近、多様性だのLGBTがどうだの言っているが
その言っている国ではネイティブの民族を迫害していたりするのだから
所詮その多様性というものは、自分が良しとしたい範囲のものでしか無い
そう主張することが良しとされるという社会的風潮においての合意でしかない
つまるところ、これもマジョリティ側の感動ポルノみたいなものなんだろうと思う。
食人やネクロフィリアまで認められるなら多様性だなーって思うけど
もっともらしい理由をつけて「それは違うだろ」って言うんだ。
それは結局、限られた多様性って事になる。迫害している自覚はないんだ。
医学的にどうとか、健康がどうとか。
そういいながら、子供にSNSを使わせるんだ。何時間も座らせて勉強させるんだ。
よくわからない。本当に。
話がずれたので今日はここで終わり
100歳まで生きようという地獄の中の地獄
人生100年時代。
100年。
目指せ100歳。
数字。
数字を追って生きて。
なにもないのに
ただ数字を追って。
達成しましたおめでとう。
達成できませんでした、悲しいですね。
死ぬ事すらも番付されて
地獄の中の地獄。
生きてる上に、生きる事を強要される地獄。
じごっく
「何もかも憂鬱な夜に」倫理や道徳から遠く離れれば、この世界は、まったく違ったものとして人間の前に現れるんです。
「何もかも憂鬱な夜に」著:中村文則のネタバレを含みます。
自分の理想像という社会的動物としての呪縛と共に生きる事
倫理や道徳から遠く離れれば、この世界は、まったく違ったものとして人間の前に現れるんです。まるで何かのサービスのように。ー「何もかも憂鬱な夜に」P138
作中で強姦を繰り返していた男の言葉。
これはおそらく狂気だが、しかし狂気であると言い切る自信がないのは、正常であるという自覚の狂気性を常日頃から僕自身が感じているからだろうと思う。
何か、立ち位置の曖昧な主人公がどちらかに振れるギリギリの様子を描写している作品で、読んでいると気が滅入ってくる作品だった。
僕らは、その「倫理や道徳」の枠組みの中で「こうあるべき」という自分を作ってそれに沿って生きようとしている。
それは社会的にはなんの問題もなく、むしろ喜ばしい事だ。
儒教が浸透している国あるあるとも言える。
道教や仏教は個人哲学ではあるが、倫理や道徳の重要性は説いている。
やはり、最後の一線を超えると、それこそ個人としての楽な暮らしもままならないからだろう。
釈迦は…
触れてもなんでもない毒の入った水に手を入れても問題はないが、手に傷があるとそれがみるみる体を侵食してしまう。悪行とはそういうものだ(意訳)
と説いている。
人間というのは本当の意味で自分勝手に生きることはできない。
しかし、それをどう受容するかは心の問題だ。
「こちら側」で居続けるか「あちら側」に行ってしまうか。
どちらを選ぶにせよ、後悔は先にできるものではない。
哲学や思想は大事だと思う
作中、多くの人間を殺し死刑になる男の様子が描写される。
死刑囚となったあと、宗教を学びクリスチャンになり、死刑執行日まで穏やかに過ごし
死ぬ直前「神様!神様!」と叫び暴れ、押さえつけられ死んでいく男の姿が。
仏教だろうが、哲学だろうが、なんでもいい。
学んでおいたほうがいいと思うのは、一線を越えないためであり、楽に生きるためで
それは、他人のためになるかどうか、そういった事ではない。
少なくとも、自分のためにはなる。
それでも越えてしまう人がいるのなら
それは仕方ない事なんだろうとも思う。
この世界はすべての人がそのままで生きていられる程器用にできてはいない。ハズレを引く人がいる事は、止む終えないのだから。
僕も思春期の頃は何が何やらだった
社会に出た後も何が何やらで、おぼつかないし、正直今もおぼつかない
ただ、生きてるだけだ
生まれてしまったのだから仕方がない。
仕方がないと割り切っているだけで
生まれてきてよかったと、胸を張って言えるものでもない。
【現世ここが恐ろしい!】
— キメねこ (@kime_neko) 2020年9月29日
・同意なく突然無から引きずり出される
・基本的に“渇いて”おり生涯に渡って、その渇きを満たす活動に終始しなくてはならない
・想像し得るあらゆる残虐行為は物理的に実行可能である
・人は死ぬ、絶対死ぬ、必ず死ぬ、死は避けられない
それは何かを得た所でどうせ何も変わらないのだ。
お金だろうが人望だろうが、外的なものは結局何も満たしてはくれない。
自分で自分を理解して、何もなくても良いと思えて、
はじめてなんとか死ぬまで立っていられる
そういうものなんじゃないのかと思う。
減量中だけど、コロッケとプリンを食べてやりましたよ!!(悪行)
話したい悩みがあるというのは幸せな事だと思う。
「第三者に話を聞いて欲しい。」そう思える話がある人は幸せな事だと思う。
苦痛において「なにか原因がある」と思い込めているという事だからだ。
しかし、本来の苦痛の原因はそもそも生きている事なのだから
話してどうにかなるのだろうか
生まれた時点で、苦痛を回避する選択肢はない。
死を選ぶ事もまた苦痛だからだ
所詮苦痛の中で絶対的な力で終わらせてもらえるのをただ待つことしかできない
受け入れて生きるしか無い
そういった一切の事実から、盲目的になるために
目先の欲を追って生きるのも一興なんだろうとは思うけど
死ぬ時には結局すべてを手放していかねばならない
一体コレは、なんの罰ゲームなのだろうか。
やれやれだぜなー