「全」は「一」、「一」は「全」の話:梵我一如
良い記事だったのでシェア。
全は一、一は全
これはハガレンで見た言葉なんだけど。
梵我一如的というか、仏教的な哲学概念の話だと思う。
エドワード兄弟は、孤島に置き去りにされて、あらゆるものがつながっているという縁起の真理を学ぶ事になる。
少年漫画なので、その後戦いという対峙で物語は進んでいくが
結果として「人として生きるための孤立」を人として解決する事になる。
まぁこれはこれで、少年漫画らしいし、そもそも「全」になる事の強要をしてくる敵役ってのはおうおうにして梵我一如の梵とは存在としての意味が違ってくるので、倒して然るべきなのかもしれない。
この辺は考察的でアレなのでおいておくけども
とりあえず、僕らは不思議に絡み合って僕らであるのであって、僕が僕である事には、「僕以外」が必要で、それは一つでも欠ければ、僕は僕でなくなってしまう。それほどに複雑性を含んだものだと思う。
うさぎ駆除で蝶が減った話
何の本に書いてたのか忘れてしまったけど。
イギリスだったかが、うさぎが大量繁殖してしまったので、
繁殖を抑えるワクチンをうさぎに投与したところ
偶然その年、家畜が減っていて、うさぎ駆除と相まって牧草地的な場所の草が減らなかったんだとか
すると、草が伸びすぎたせいで、特定のアリがうまく生活できなくなり
なんやかんやで青い蝶が減ったのだとか。
もうもはやバタフライエフェクトの域だとしか思えないような謎の連鎖だけど
僕らは僕らとして存在するのは、宇宙のビッグバンから広がる複雑な物理現象の上の結果であるという事を忘れてはいけない。
それは人のフィルタでしか理解できないレベルよりはるかに細部に渡って絡み合っている事で、知覚するのはほぼ不可能。
だけど、それを忘れなければ縁起性をもっと大事にできると思う。
自分自分ってならなくて済む事。一部でしかないって事。
無我ってやつに気づけるって事。
まぁ生半可な話ではないんだけど。
生きるためには特別な何かは必要ない
元記事の話に戻るが
良いたとえ話があった
心の器みたいなものがあったとしたら、それは水でいっぱいに満たされてるけど、成長すると器も大きくなった気になって水を欲するようになるけど、すでに水はいっぱいなんだよ
みたいな話。(雑な引用なので、リンク先読みに行ってくれやす)
仏教では感情を3つにわけるのだとか。
- 快楽
- ニュートラル
- 苦痛
の3つ。
快楽は慣れる。
ドーパミンは同じ行動量に対して同じだけの快楽を感じさせてくれない。
だからアルコールやギャンブル、薬物は依存すると量が増えて破滅する。
仮に、破滅しなくとも「普通」になる。
行動に対して刺激が足りなくなる。それが当たり前になる。
すると、退屈になる。
退屈になれば苦痛になる。
人間は基本ネガティブになるようにできてるってのはこういう仕組み。
釈迦の哲学は「ニュートラルな状態を良しと気づけよ」的な内容が含まれている。
元記事の「麓の話」はまさにそれだと思う。
水を一杯にしなくても、最初から僕らは水いっぱいの器をもっているんだけど、それに気づかない。
最初から幸せなのに、必死に山を登ろうとしてボロボロになって、山頂にたどり着いてもなんか違うとがっかりするか、山の途中で野垂れ死ぬ。
そういう生き物。
なんにもなくてもええんやでって事に気づけるかどうか。
これが肝。
気づいても変わるのは難しい。
しかし、世俗的価値観に一度飲まれてしまった僕らにとって、そこから抜け出すというのは簡単な事ではないのよね。
だから大変。
哲学学んで、内省して、少しずつ直して行くしか無い。
これを仏教では
- 善行と瞑想をしろ
と説いている。
善行を前にも書いた通り、「自分が良しとするもの」であって道徳的にどうとかって話ではないと解釈してる。
ストア派も、自省の日記を書いて振り返る事を勧めている。
筋トレと同じで、考え方というか脳トレというか、そういうものも一朝一夕ではいかんのだろうね。
ぐちゃったのでまとめ
って話ですた。
マインドマップで本当に自分が信じる価値観を掘り下げてみるとええでよ。
文章。短くまとめたい。こんなだらだら書いてたら仕事できない…
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