思い通りにならない事は放っておけ
仏教でいう無我とはどのようなことを指すのでしょうか?に対する円山 蒼月 (Sougetsu Maruyama)さんの回答 - Quora
諸法無我とは、この世のあらゆるものは「我にあらず」→「思い通りにならないもの」という意味
という解釈。
デカルトの「我思う故に我あり」は、「非ず」と気づく事がが出来るため、認識主体のみは存在するという事で。この「我非ず」に気づく人は、ほんとよくここまで考えたもんだなと思うわけだけど。
僕の認識だと、諸法無我は、梵我一如的な四無量心に繋がるための縁起性を確立する思考法だと思ってたのだけど、この人の解釈だと諸法無我と一切皆苦が同一にも思えるし、この辺はどうなんでしょう。
という疑問はさておき。考え方はどちらにもメリットがあるので、今回はQuoraの方を参考に。
思い通りにならない事は放っておけ。
仏教の「苦」は「思い通りにならないというもやもや」を表現する言葉がなかったから「苦」と訳されたと見たことがあります。
なんにせよ。
思い通りにならないものは放っておこうというのは
人間は思い通りにならないものに意識を向けて、どれだけの時間と精神を食われている事か。
仏教は、それを「すべてそういうものだから」とぶった切ってる所が、ストア派より激しい感じもしますが、
道教は「道を行け」って事で決定論的だと捉えられ勝ちだけど、苦しんでる時は道から外れてるんだなーと考える事もできるので、自分の苦しみを整理する術として優秀だとも思います。
** どの哲学にせよ、思い通りにならない物事だと割り切っていれば、「まぁそんなもんだよな」と一蹴出来るし、抗う美談的な美しさは無いものの、それが本来の人の姿のようにも思える。
僕らは、自分を満足させるためのフィクションに思考を支配されて、抗わない事の優位性をどこかで失ってしまっているのかもしれない。とか思ったり。**
この話に付け足すなら。
仏教では中庸も説かれてるので、「100%放っておこう」というより、「ちょっと手加えらんないかやってみて、いけそうならやって、無理そうならやめておこう」くらいの感じでもいいのかなーなんて思ったりもします。
何事も、適当に程々にっつーことで。