【小説】雲南省スー族におけるVR技術の使用例:柴田勝家
概要
VRデバイスをつけたまま暮らす中国の少数民族の調査研究をしているという体での記録。
ネタバレ含む:感想
小説だけど、なんかちょっとしたノンフィクション読んでる気分で読めた。
世界が人にどう見えているかという話が興味深い。
カントの「人間は物自体に到達できない」というのは、個人間でも有り得る話だと思ってる。
よくある話だと、コップに水が半分入っているのを見て「半分も」と思うか「半分しか」と思うかそれは各人の受け取り方によって変わるというものだけど。
僕らが感覚器官を通して理解する情報というのは、僕らの脳で情報として処理される。
それが個人間で差があるかどうかは知りようがない。
そういった話を「VRで一生を過ごす」という題材と通して語っている。
見えているものが違う事を受け入れる事
何より終盤が美しい。
この物語にはスー族というVRをつけたままの民族の他に、彼らを世話する「介添人」の人が登場する。 その介添人達は、最初こそ見えているものが違う人と結婚した事に戸惑いや恐怖を感じるが、それも当たり前の事だと理解し始める。 この寛容さは美しいと思った。
文字と想像
ゴリゴリのネタバレだけど。
最後の段落にやられる。
主人公である研究者は、学生たちにこのスー族の調査を「VR」を通して疑似体験してもらうのだけど
時代が進んでいるのだろう、どうやら学生と教授である主人公は直接合ったことすら無いらしい。
そんなもんだから、学生から「先生は本当にいるのか」という話にまでたどり着く始末。
そして、教授自信も学生とは文字コミュニケーションをとっているため、文字でしか彼らを認識できていない。
文字を通して彼らを思うという、エンディング。
このなんとも言えない感がよかった。
僕らは僕らの想像の及ぶ範囲の情報しか処理は出来ていない。
文字であろうが、なんであろうが、受け取った情報をどこまで、そしてどのように処理するかは人それぞれ違いがあるのだから。
SF作品であるからこそ、そのことへの理解が追いつくとも言えるけれど、実際問題として、現実でこの理解の差は発生している。
障碍などで色が見えないとか、特定の物事をうまく処理できないなどの話ではなく、健常(この言葉が適切かは不明だけれど)であっても、差は生じる。
この差に対する不寛容さがなければ、もう少し人と人はわかり会えるのかもしれないとか思ったり思わなかったり。
介添人のような人ばかりなら、軽率に他人を小馬鹿にするような人も減るだろう…なんてお花畑みたいな事を思ったり。
人は根本的にはわかりあえぬものよねー
余談
小説内で出てきたやつ。
老荘思想っぽいというか、非世俗的というか。莊子が似た話をしてた気がするけど。あれは夢と現実どっちが本物か?って話だったような、っていうかそっちのがこの小説と文脈にあってた気がするけど、それはいいか。
とりあえず、こういうの好きです。人のすることなんて所詮、取るに足らない。 欲に心囚われ何かを得たとしても、ほんの一瞬、夢のようなものだという。
マルクス・アウレリウスも、自省録で「死ねば忘れられるだろう」みたいな話残してるんよね。
そういう心持ちで、程々に生きていたい。
ま、2000年読まれてるけどな。アンタの日記。
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