死の恐怖を乗り越えるのは難しい。
ホクロ恐怖症なんですけども、先程足の裏にホクロできておそろしやーってなってるうねおです。
死の恐怖は乗り越えるのが難しい。
死の恐怖は乗り越えられるのか
死であろうがなかろうが、恐怖というのは感情であるため、その対象そのものに対して意識が向いていなければその場にとどまる事は出来ない。
諸行無常は感情にも適用される。
全てのものは移り変わっているので、単純に別の事を考えていれば現在時点ではその恐怖から解放されることになる。
ウィトゲンシュタインはこれを無時間性と説いて、末期がんに犯されながらも自分がやりたい事「哲学探究」に死ぬまで取り組んだ。
死の間際には自らが説いていたあらゆる「死の哲学」を放棄して奇行に走る哲学者も多い中で、彼は相当なメンタリティだったのだろうと思う。
あのキュブラーロスですら自身の死を前に、鬱と妄想で苦悩してたって話を読んだ事がありますわ。真偽は知らんが。
精神的な問題を最も効率よく解決する手段は、彼が行ったとおり、現在への意識の集中だと思う。
ソレ故に仏教含め、哲学も宗教も瞑想などの現在への集中を推進している論法が多いのだろう。
しかし、これもまた簡単な事ではない。
一朝一夕ではいかない。
苦しさから逃げたい時だけに瞑想なりマインドフルネスにすがっているようでは、結局の所根本的にその問題に対処する力はつかないのだろうと思う。
座禅を組む必要はないけれど、常日頃から、自分が成すべきことを定めて、集中しマインドフルネスでいられる事こそが
精神的な問題の解決法であって
それが出来ない人間は、おおよそ死に対しても同じ反応をするのだろうと思う。
僕もまたその一人で、死が怖い時と怖くない時をフラフラしている。
何より、死に至る過程への恐怖は拭えた事がない。
死そのものよりも、それが怖いと思う。
しかし、釈迦が説いた通り形而上学的な問題についてあれこれ考えるのはナンセンスだし、死ねばそれはそれで解放だと考えてしまえるならそれも良しだと思うので
このあたりは「死ぬことにもメリットデメリットがある」くらいでいいんじゃないだろうかと思ったりもする。
ソクラテスが言ったように、怖がりすぎる事もなければ全く恐れないという事もないくらいが普通なのかもしれない。
自分は自分の死を知覚出来ないから、「自分の死は存在しない」ってエピクロスは言うてるらしい。そのくらいの心持ちで居たいねー。
まぁ、考えても人間は死にますからな。早いか遅いかの話で。それまでどうやって生きるかが重要なのであって、この圧倒的不条理を乗り越える策なんて考えたって無駄なのだろうと思うのです。
それでも考えてしまうのが現代人の性ですが。
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