後は死ぬだけの人生。目標がほしいおじさん
引っ越し終わったうねおです。
後は死ぬだけの人生
とりあえず、色々と20代の頃に立てた貧相な目標をクリアしてしまったので
これといってやり残した事がないアラフォーおじさんになってしまったわけですが、
このままでは「後は死ぬだけおじさん」なので、どうしたものかなぁという感じ。
目標がほしい
画力とか筋トレとか、そういう利益度外視の目標は少しありますが。
それを極めたからなんなん?という話で、自己満足の域を出ないものばかり。
- 画力
- 筋トレ
- 英語読解力
- 瞑想(メタ認知力)
このくらい。
日々の積み重ねな上に、別段急を要してない。
どれも趣味みたいなもの。
メタ認知力に関してのみ言えば、実際の死と向き合う時に役立つなぁと思うけんども、他は別に無いなら無いでいいというか。
利他的に生きる
最近、利他主義の情報を集めてたので
寄付のために働くかなぁみたいな感じになってたりはします。
利他的に生きるのは結局利己的に生きる動機になるので
やる気無い。目標ない。みたいな時の後押しになるかなぁと思ったので。
とはいえ、自分の直近の生活に関係するわけでもないのでほんのりケツに火が付く程度で、起爆剤にはならなそう。
諸法無我
仏教では諸法無我ってのがありまして。
「己など無い」って事なんですけど。
ウパニシャッド哲学の梵我一如とか、デカルトの「我思う故に」とか「スピノザの自由意志の否定」とかまぁソノ辺色々僕は「そうだろうなー」と思う哲学は世の中に散りばめられてまして
「自分!自分!」って生きてられるのはそれはそれでやる気に満ちあふれて楽しそうだけど
その分「なんで自分はこうなんだ!」って事も一緒に背負う事になってしまう。
無我ってのは、こういうものを放棄して生きることが出来るので、楽ではある。
楽ではあるし、アドラー的に言えば共同体感覚ってやつで、縁起性を感じて生きる事が出来るので他人に腹が立ったりもほぼほぼ無くなってきた。
それでも、虚無主義的に陥りがちな状態なので、これは本当の無我ではないのだろうなという自覚があったりもする。
感覚に慣れてないだけかもしれないけど。
こういう所を整理していけば。また目標みたいなものを取り直せるんだろうかとか思ったり思わなかったりする。
求めれば「苦」を体験する。
求め続ける限り、思い通りにいかない事に苦悩する事になるし。
求めさすぎれば、暇となり、それも苦痛の原因になる。
この言説はショーペンハウアーのもので
仏教系の哲学では「その何もない事こそ幸せなんやと気づけよ」と説かれてる。
それはわかる。わかるが、僕はとにかく生き急いできたので、暇に慣れてない。
仏教的に考えるならば、この不慣れな感覚に対する執着を手放してこそ、楽になれるのだろうし
アランの幸福論や、岡本太郎的に考えるならば「行動!行動!情熱たやすべからず!」みたいな感じになるんでしょうなと。
結局。哲学にも正解は無く。
合うか合わないか。ただそれだけなんだろう。
僕は仏教やストア哲学がすごく合うので、平穏ならばなんでもよしだと思ってたけど
暇は暇で結構苦痛なんだなと思った。
鼻くそみたいな目標でもいいから、何か具体性のある目標を作った方が良いのかもしれない。
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