「自殺はしてはいけません」って暴力だよね
さくらさんは、確かさくら通信の中でも、ある種自殺の正当性、というか、認められるべき部分をはなしていたと思う。
「自殺はしてはいけません」という暴力
多系統萎縮症という病気で、安楽死する人のドキュメンタリーを観たことがあるんだけど
日本では安楽死は認められていないから、遺骨はスイスの川に流した、というテロップが流れて、心に響いた。
これは、国が卑怯にも逃げ続けている事によって発生した、集団による暴力でもあると感じた。
自殺の正当性を、「生きることは素晴らしい教」の人たちが認めないことで
その宗教に属さない人たちは、蔑ろにされている。
心の病を軽く見る人達
心に病に関して、考え方がただせれば治るだろうと思っている人が多いと思うんだけど、
まず、心の病の原因は割りとはっきりしていない。
そう簡単に治るものではない。
うつ病のセロトニン説はあくまでも説であって、昨今「これおかしくないか」という意見も出ている程で
正直
「うつは心の風邪」なんて言うが、こんなものあまり使いたくないが、比喩ではなく事実として「心の癌」といった方が適切だと思う。
考え方を変えましょうとか、そんな簡単な話ではどうにもならない。
僕はメンタルヘルスについてできる限り情報を拾い集めたが、
所詮こんなものかという結論に至った。
一時しのぎ的でしかない。
生きることそのものに苦痛を感じている人や、そもそもの原因を取り除けない場合、自殺は正当化されるべきだと僕は思う。
認知行動療法は素晴らしいと思う。
たしかに、考え方を変えて生きることはできる、だが、それは本当に、
ただただ、苦痛を感じながら死ぬことを先延ばしにされているだけだ。
認知行動療法でも生得的な気質を修正することはできない。
性格を変える事はできても、「治す」ことはできない。
治すというレベルの性格に関しては、もうどうしようもない。
それが可能であれば、今自殺者は存在していない。出来ないことの証明とも言える。
手が足りないのではなく、そもそも、現代の医療では、治せないのだろう。
手を差し伸べられようが、それでは治らないのだ。
いのちの電話につながろうが繋がらまいが、いのちの電話が必要な状態から脱却できる人は
原因の排除が可能な場合に限った事であって、すべてに適用できるわけではない。
死にたい人と、死にたくない人の意見は相容れないと常々思っているのだけど
これが社会規模で、「生きることは素晴らしい教」が蔓延している現状で
どれだけ、生きることの苦しさを感じている人が救われるだろうか。
むしろ、疎外感が強まるだけだ。
この教義は暴力でしかない。
執筆日:2022-08-04