肩書なんてクソ:権威主義的パーソナリティ
人は往々にして「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」で判断する。
権威
心理学的名著「影響力の武器」によればこれは「権威」という心理バイアスが働いているのだという。
最近よく観る…
●●大学の研究によると…
というこの一文があるかないかで、その信頼性が代わってしまうのと同じ。
多くの人は、メタ分析されてるかどうかより、大学が研究してるかどうかで判断してしまっているのだろうと思う。
ヒトラーと権威主義的パーソナリティ
フランクフルト学派だったか、権威主義的パーソナリティの研究をしてたのは。ちょっとうろ覚えだけど。
権威に従うって事は自由からの逃走になる。
エーリッヒ・フロムが説いた通り、人は自由にすら苦痛を感じるのだろう。
選択する面倒くささから解放されるために、権威に従うようになるのだ。
肩書に迎合するというのは、それは従う先を判断する自由すら放棄している。
一体なぜ、そんな不自由を犯すのか。謎でならないが、人はそういう生き物らしい。
行いを見よ
釈迦いわく「行いをみよ」とのこと。
他人がどういう人間かを判断するときは、その人がどんな生まれか育ちか、どんな役職かなんて鼻くそみたいな事はどうでもよくて
行いを見よ。との事。
行いを見ているか?
本当に優れた人は、他人の年収を自分の年収と比べてこき下ろしたりするだろうか?
よく考えたほうがいい。
なにかに従う前に、その人の人となりを見たほうがいい。
縁起性
どんな愚か者だろうが、どんなに優れたものだろうが
結局はすべて連鎖によって発生した何かでしかなく、そこに境界を作っているのは
人間としてのフィルタを通して見ているからにすぎない。
釈迦はこれを縁起の法として説いた。
紀元前にどこまでその感覚があったかはわからないが、梵我一如よろしく、その当時から物理的な連続性については説かれていたので現在の物理学同様の感覚だったのかもしれない。
そこまで深く物理的な反応による繋がりを信じるには、前回書いた通り困難を極めるが
人間単位、生物単位であらゆるものが複雑に絡み合って、自分が存在していると思えば
もう少し他人を敬えるようになるんじゃなかろうか。
口先ではなく、心から、年収も、地位も関係ないんだよ。って事を言える人は優れていると思う。
別に特定の誰かを言うてるわけではないんでよしなに
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