自殺を「悪」としてはいけない
僕は、世間的には自殺は「悪」だとされているように感じている。
しかし、これは間違いだと思う。
自殺は生への抵抗という選択である
僕の哲学的には、自殺は最後の選択だ。自由である。
善も悪もない。
しかし、これはショーペンハウアーも言っている事だけど、「手際は悪い」。
自殺というのは生への抵抗だが、その結果を知る事ができないため、効率が悪い。
釈迦は生への抵抗として「無常・苦・無我」を知る事を説いたのだと、僕は捉えている。
これは現代では認知行動療法などの心理療法によって十分達成ができるが、それはなかなか大変な作業だ。
行う行為としては、自殺は効率が良い。
しかし、結果を知る事ができないので手際は悪い。
釈迦の哲学を遂行するならば、行う作業は大変ではあるが、結果を知り生きる事ができるので手際は良い。
つまり
- 生への抵抗は自殺以外に策はある
という事を釈迦は示していると思う。
詳しく知りたい場合は、仏教を勉強するも良し、認知行動療法を勉強するも良し。
面倒ではないのは後者だと思うが、浅い西洋道徳観が交じるとエゴの肥大化を招くため学ぶ際には注意しようという話だけはしておこうと思う。
自殺したものへの敬意が無い
自殺を悪とするとき、自殺したものへ敬意がないと感じる。
自殺した人は、それがその人にとっての最善であったから選択したのであって
悪行を成したわけではない
生きている側の論理で自殺を「悪」だとか「馬鹿な行為」だとするならば
死んだ人間を最後までこき下ろす事になる。
そこに愛情が介在しているかどうかは関係がない。
どちらにしても否定しているのだから。
死ぬほど辛い生を、自らの手で終える選択をして、死んでいった人間を、更に否定するとか。
お前は鬼か。と思ったりする。
人はその人のフィルタを通してしか物事を見る事が出来ず、故に生きている側は生きている側の論理でしか語れない。それをわかった上でも、死んだものを更に否定するなど、鬼としか言いようがない。
自殺者を失って苦しい思いをしている自分を肯定するために、自殺を否定するのだろうか。
遺された者が苦しいのは、その人が自殺したからではなく、遺された側の心の問題だ。他人の行為を否定して自分を肯定しようとしても
誰も救われはしない。