死にたいと生きたいの境目
butterfly-blink.hatenablog.com
「死にたい」というのと
「実際に飛び込んで死ぬ」というのでは、
とてつもない大きな距離があるのだなぁと、
このときに実感します。
そして、この距離がもう一切なくなった時に
人は飛び込むんだなと。
大体の人の死にたいは、希死念慮止まり。
自殺企図に至る人は死にたい人の中でも少数派だと思う。
希死念慮に苛まれてる人が何が原因でそれを抱いているのかはわからない。
自分の事でもわからなかった。
希死念慮について、自分の遍歴
僕は、中学の頃から希死念慮を抱えて生きていて、30後半でそれを断ち切る事ができた。
断ち切る原因になったのはCBT、認知行動療法とメタ認知トレーニング。
本当にこれは上手くハマったと思う。
ただ、完全に希死念慮が消えてたわけではなくて、なんとなく先の見えなさに陰鬱な気分になることはままある。
その時うっすら、今死ねば楽になれるのにと思うものの、認知行動療法のおかげというか「せい」というか
「まぁ放っておいてもそのうち死ぬし、漫画でも読んでよ。」
と考えるようになった。
希死念慮は、うまく生きられれば消えるのだろうか
僕はしばしば、生きる事が下手くそだなと、自分に対して思う事がある。
根本的に厭世的で、悲観主義的でという所があるから希死念慮があるのか
それとも、うまく生きられないというもどかしさが厭世的であったり自己嫌悪であったりを生み出して希死念慮を生み出すのか
原因はよくわからない。
科学というのは万能ではないから、認知行動療法がすべての人に当てはまるかもわからないし
そもそも認知を変えても生活が突然一変するわけではないから、
うまく生きられないから希死念慮がある場合、付け焼き刃にしかならなくて
現実を変えるしか対処がないのだろうと思う。
「もっと」
ヨガの先生がYoutubeで話してた事で、僕も趣味で東洋哲学を読むので、このブログでも何度か書いたかもしれないけど
仏教哲学では欲を満たすのではなく減らす事が大事よねと説かれてる。
お金があれば、家族がいれば、彼女がいれば、あの車が買えれば、なんて色々人間の欲は尽きなくて
それがあればと考えるのはフォーカシングイリュージョンという認知バイアスらしい。
結局はそれを得たとしても、次の欲が生まれるだけ。
人間の欲には際限がなく、もっともっとと続くばかり。
求不得苦という言葉が仏教にあるけど、これは求めてるものが得られない苦しみを指す。四苦八苦の後ろの4つの中の一つだ。
すべて捨てるってのは出家者でも難しい。
出家者の多くは仲間と共に暮らしている。見方によっては、現代の孤独人間より恵まれているようにも思う。
釈迦は「中庸、中道」を説いているから、全部びっちり捨てなはれとは言わなかったのではないだろうか。
だから全部捨てようみたいな極論より、目指すは「少欲知足」がベストなんじゃないかと。
死にたいという欲
死にたいというのも、ある種欲だと思う。
それそのものが欲の場合はもちろんあるだろうけど
先述した…、うまく生きられれば死なないのであれば、うまく生きたいという欲が「死にたい」と表現されているに過ぎないのだろうと思う。
もっと細かくいえば、誰かに認めてもらいたかったのかもしれないし、生活苦がお金が欲しいのかもしれない、もっと叶わないような願い、例えば亡くなった人に会いたいという虚無感かもしれない。
何かしらの欲がその裏にはあると思う。
今の自分の浅知恵の範囲ではあるけど、死にたい事そのものが欲になる事は無いのではないかと思う。
裏になにがあるか探ってみると、良いのかもしれない。
どうしても、鬱々としている時は視野が狭くなる。
何をして立って、どんなに生きたくたって
人間はいつか死ぬ。
そんな急がなくても否が応でも死ぬ時はやってくる。
そんな時
死にたいままなら、勝ち組だし
死にたくなくなってたら、死ぬのに怯えながら死ねば良い。
死にたい人間は、まぁとりあえず、その日が来ることにあまり恐怖しないだろうから
人間の、というか物理法則の理を受け入れられるラッキーなメンタリティを持っていたということで
死にたくない人より、死を受け入れられるのだから
その日がくるまでは、だらだら生きたらいいんじゃなかろうかと、思うたり。
みんな真面目に考えすぎなのかもしれないね。生きるとか死ぬとか、そんなものに、良いも悪いもないからね。