完璧主義と学び:全部できるようになる必要ある?
英語多読とかインプット仮説とかの記事読んでると
「インプットだけでは話せるようになりません」
「受容バイリンガルがその証明です」
みたいなのが出てくる。
わいは思った
「話せる必要あるんすか?」って。
- 日本国内の学習者にスピーキングとかいらんやんけ問題
- おもろければなんでもよくないか、問題
- かっこいいセリフは覚えたくなるやろがい
- 習得する自信なんてない。未完成に終わっても、面白かったと思うことを優先したい。
日本国内の学習者にスピーキングとかいらんやんけ問題
そもそも、日本で英語を話す必要がない。
話せるようになりたい人は話すトレーニングが必要なのは当たり前。
「インプットだけで全部できる」って、走るの早くてサッカーやってる人なら、野球もできるでしょみたいな考え方だよなぁと。
最近の筋トレ業界では、一つのトレーニングの伸びが悪いからって他の種目をやるより、そのトレーニングの負荷の負荷を変えたり、補助を利用して力のかかり具合を変えていく方がいい、なぜなら種目やフォームはスキルだからだ。って考え方があるんだとか。
それと同じでさ。
スピーキングやりたい人がスピーキングやらないってのはそもそもとして意味がわからないし。
なんでスピーキングやりたい人が「インプットだけで学習します」ってなるのか、そもそも謎なんだ。
だからさ。
話せる必要はない。って思ってる俺みたいな英語学習者はインプットだけでもいいよねって事になる。
理解できればいいんだから。
論点がずれてるので整理するけど
- インプットは学習の土台。大量に必要なのは当たり前。知らない事はアウトプットできない。
- アウトプットはスキル、書く必要があるなら書くし、喋る必要があるなら喋ろう。
これを一々調べたり、解説したりしてるこのよくわからない環境が日本の英語教育の現状なのかもしれないと思った。
おもろければなんでもよくないか、問題
正直、おれは英語やりきる自信なんて無い。
中学の頃から苦手だったしいつも、欠点ギリギリだったし。
それは倫理、哲学も同じ。
だけど今はそこそこ楽しいから、倫理哲学勉強したりしてるし、英語もやってる。
むしろ一番好きだった数学は忘れてる。
そんなもんだと思う。
アウトプットしたくないなら、必要がないなら別にしなくてもいいやんって思うんだけど。
必要ない事まで学ぶ必要はないし。
インプットしまくってればほうっておいても独り言とか出てくるでしょうよ。
かっこいいセリフとか。
かっこいいセリフは覚えたくなるやろがい
NetflixでDragon Prince見てるけど、結構東洋思想っぽい考えが出てくるのよねぇ。
川の流れに逆らうな話はアップしたけど、「焦らず、ただそこにあるだけでいい」みたいな話とか。これはオハイオの悪魔のワンシーンでも似た言葉が出てきた。
Everyone always wants us to feel better, but sometimes we just wanna be.
みんな私達に気分よくいてほしいと願うけど、時にはただ「居たい」だけでいい。ーオハイオの悪魔
日本語で表現しづらい表現だけど「be」の表現って便利やし、わかりやすいなって思って見てた。
Well-beingって幸せって訳される事も多いけど、その訳だと日本語ではちょっと違うくない?って思うんすよね。
すごく仏教的な言葉だけど、日本にはこれを的確に表現できる単語ないんだよなって思うと、面白いなって思うんですよね。「よく在る」とか言われても意味わからんし。
そういう言語は違えど新しいボキャブラリの使い方を見たら、ankiしたくなるやん。
そういうもんじゃないの学習の面白さって、
なんでもそうだけど、「べき」ベースでやることなんて面白くねぇですし。
習得する自信なんてない。未完成に終わっても、面白かったと思うことを優先したい。
まぁ、でも
絵や漫画と同じで、俺は何かをやりきれるような人間じゃないから。
やっぱどこか、自信はないけど。
だから結果より今面白いかどうかを大事にしたい。
やった事そのものに意味があったと思えるには、楽しむしかないからなぁ。
だから日本で英語学習してる人は一回考えてみればいいさ。WrittingやりたくないとかSpeakingしたくないって思ってるなら、それ本当に必要ですか?って。
なんで100%全部できなきゃいけないんだよ。
こちとら、13年絵描いてるけど、ちょっと漫画描けるだけで、ほとんどの事ができてねぇわ。
ま、飽きるまで楽しんで、また別の事楽しんでの繰り返しよ人生なんて。
何やってても道半ばで死ぬんだから、今面白くない事をわざわざ無理してやる必要もない。